米津玄師、2枚のアルバムを経て解放された才能が
より自由でディープに花開いたシングル
『Flowerwall』で新章へ
2013年は前の方法論ともうひとつ必要な方法論とで
齟齬が起きることがあって、
これはマズいっていう危機感があったんですけど。
でも、『YANKEE』を作ることによって
そこから解放された感じは凄いあります
■2014年4月のアルバム『YANKEE』以降、一発目のシングルであり取材です。その間に初ライヴを行うという大きなトピックがあったので、まずは初めてライヴをしてみて何を感じたのか?から伺えますか。
「最初はどうなることかって感じだったし、やる前は『もしかしたら二度とやりたくないと思うかもしれない』って思ったこともあったんですけど、結果として一番大きかった感情は『楽しかった』っていうことで。もちろん至らない点は確実にあった――まだまだだなと思うこともいっぱい露呈したし、そういうのはあったんですけど、最終的にやってよかったなって心から思えたんで。それは凄くよかったですね」
■ライヴそのものはもちろん、終演直後に会った米津くんの高揚感溢れる感じというか、興奮と喜びに溢れた姿が凄く印象的だったんですけど。
「なかなかあの感じはないですからね。自分でも結構びっくりしてるところがあって。高校の時とか、ライヴ経験みたいなのはあったんですけど、その時はどうしていいかわからなくて。自分の声も聴こえないし、自分でも何をやってるかわからないみたいな状態で、楽しいと思うことはなかったんですよ。そういうこともあってライヴに対して苦手意識が強かったんですけど……今もその苦手意識は完全に拭えたわけではないんですけど、でも昔ほどライヴというものに対して霞みがかった感じじゃなくなったというか。ある程度、2メートル、5メートル先ぐらいまでは見えるようになったんで。だからちょっと安心しました」
■ライヴを観て思ったのは、確かに未熟な点は多々あったんだけど、でもファーストライヴとは思えないくらい非常に堂々としたものだったし、米津くん自身から強い訴求力を感じたんですよ。やってみなければわからないというよりも、ちゃんと人前で歌を歌う覚悟ができている状態でのライヴだったと思うし、それは言い換えれば、米津くん自身が真摯に真っ向から自分の音楽や歌と向かい合ってきたかの証明だなと思って。
「覚悟があったかどうかって言われると自分ではあんまりよくわかんないんですけど……覚悟がどうとか言うほど余裕がなかったので。ただ、やる限りは、お金を払って来てもらってるわけだから、聴いてくれる人の足しになるものをやらないとっていう意識はありましたし、そこに迷いみたいなものは特になかったですね。とにかく『やるしかない』っていう、『うじうじ言っててもしょうがない』っていう感じだったというか」
■お客さんの様子も凄くよかったですよね。何よりもちゃんと米津くんの音楽と歌を聴きに来てるんだっていうこと、それを自分の心に刻んで帰ろうとしてるんだなっていうことが凄い伝わってきて。
「そうですね、凄い温かったですね。最初に出た瞬間はどうなるんだろうって緊張感みたいなのが自分の中にあったんですけど、あのお客さんの温かい感じに救われた部分は凄いありました」
■ライヴをやってみて、何か変わりました?
「変わった部分は確実にあると思いますね。ライヴを見越したものを作ろうっていう意識が確実に生まれました。それができてるかできてないかは別として、そうしようと思いました」
■で、今回のシングルなんですけど。これはいつ頃作ったんですか?
「今年の夏の終わりぐらいに引っ越しをして。それまであんまり曲ができなくなってたんですよ」
■それは『YANKEE』で出し尽くしてしまった反動?
「そうですね。もうないなって感じが自分の中にあって、『これはいかん』と思ったんですけど、でも環境を変えたら上手くいくんじゃないかっていう感覚があったので、引っ越しをしたんです。そしたら凄い曲ができるようになって。弾き語りでコードとメロディと歌詞があるだけのものなんですけど、そういう骨組みがいっぱいできる期間があったんですよ。この曲も、その中のひとつだったんです」
■米津くんって、そうやって物理的に何かをすることで作曲のギアを入れるところがありますよね。たしか前も、曲ができなくて走り始めたっていうエピソードがあったような気がするんだけど。
「ありましたね。やっぱり精神というのは肉体に定義されるものであって、精神を変えるにはちゃんと事物としてあるものを変えるべきだっていう感覚が自分の中にあるんで。そこから始まりますね」
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text by 有泉智子