Posted on 2015.04.15 by MUSICA編集部

BUMP OF CHICKEN、
『Hello,world!/コロニー』リリース!
稀に見るハイペースで曲を生み出す「今」を、
『FLAME VEIN』からの軌跡と共に藤原基央に訊いた!!

制作のスピードが上がったのは
自分達の曲のこと、それからそれを受け取ってくれる人達のことを
勇気を出して、以前よりもより強く深く
信じられるようになっていったっていうのが、
ひとつの大きな要因なんじゃないかな

『MUSICA 5月号 Vol.97』P.12より抜粋

 

■今回の『Hello,world!/コロニー』、そして“ファイター”と“パレード”、これはタイアップがついてるんだけど、(決してそのタイアップありきで作っていった曲ではなくて、)藤原基央にとっての自分のスタジオなのか部屋なのかどこなのか、自分の音楽の砂場で純粋に遊んでて、そこから生まれてきた曲なんですよね。

「そうですね」

■それはメジャーデビューしてから15年以上、自分達がそうやってきた中でずっとそこは移り変わらないやり方だっていう話だよね。

「うん。僕らは曲を書いてレコーディングしてライヴやるだけだから。それ以外にそれにまつわる派手な演出は全部、スタッフのみなさんが一生懸命考えて持ってきてくれるものだから。僕らがテレビとかあんまり出たがらないからさ、彼らはいろいろ考えてくれてるんですよ。それだけのことなんですよね」

■それでいくと、それこそ凄い昔、10年ぐらい前は同じようにスタジオ入ってても、曲を作ってても、なかなかできませんでしたっていう時代もありましたよね。

「ありました、懐かしいですね」

■その時代もサボッてたわけではないことは、誰もが知ってる話で。

「はい」

■何よりもフジ自身が、そのスランプにとても苛ついていたし、苦悩していた。で、『COSMONAUT』から『RAY』にかけてのところでよく話に出てきた、「最近は推敲するのをやめて音楽を作っていたかもしれない」っていう、そういうやり方にシフトすることによって、音楽をちゃんと定期的にリスナーへ届けるという回路が明確にできてきたっていう時代があったと思うんだよね。ただ、今の曲――少なくともこの“Hello,world!”と“コロニー”を聴いてて、これは推敲が薄い歌だなとはまったく思わない、むしろ今回は特に非常に凝りに凝ってる曲だと思うわけで。そうなってくると、以前の葛藤を経てきたフジがなんで今こうやってコンスタントに自分の砂場から僕らに音楽をこうやって届けられるようになったんだと思いますか?

「時間がかかってた頃の最後の記憶は…………まず『FLAME VEIN』っていうアルバムを作ってた時は、あれは簡単だったんです。その時あった曲をまとめただけだったから。もう7曲とか8曲とかできてたのを3日でバーッと録るだけだった。だから曲作りで頭抱えるなんてことはなかった。書きたい時に書いてたものが溜まってたから。16の時に書いて、19ぐらいの時に録ってるはずだから、3年間とか4年間とかの作品をまとめてて。で、『THE LIVING DEAD』の時は、あの時が一番……なんだろな」

■文句言ってたよな、あの作品の作り方に対しては(笑)。

「はははははははは」

■たったの1週間だって文句言ってた。

「あれは1週間とか10日間とかでスタジオ押さえてアルバムを作るってことになって。曲はたしか“LAMP”しかなくて、どうするこれ?みたいになって。歌詞も何もないままオケから作り始めて、メロディもなくてオケだけ作って。みんなにオケだけ教えて練習して。で、どんどん録っていくっていうね。そのオケを聴きながら鼻歌でメロつけて歌詞つけていくっていう、今思い返すとマジで意味不明な曲作りをやっていて。逆に興味深いですね、今やってみようかなとかちょっと思っちゃうようなやり方だったんだよ(笑)。そういうやり方だと、曲のスケール感とかが最初に決まるんですよ、変な話なんだけど。そう考えると、その頃から曲作りに追われてはいたけど、局地的なものだったから、そんなに書けねえ書けねえって悩んだって感じではなかったな。それこそさっき言ってたような『こういう曲やってみよう』みたいなのが自分の歴史の中で唯一あったアルバムだったかなって気がしますね、『THE LIVING DEAD』は。『次は速い曲書くか』みたいなね。まぁ今でもテンポぐらいだったら多少はどういう曲にするかってのはあるんですけどね。でも今は言葉ありきでテンポが決まるみたいなところもあるし……言葉の内容如何で自ずとストロークが速くなるっていうか。だから結構あれは特殊かもしれないです。で、その後は『jupiter』ですけど、あの頃はほんと書けなかったですね。まず『THE LIVING DEAD』を書き終えてメジャーデビューってなった時に、“ダイヤモンド”が書けなかったの。メジャーが決まって、なんかすげえ『メジャー決まっちゃった、BUMP変わる』みたいなふうに言われて、そういうお手紙とかもらって。それこそ『信じてたのに』みたいな手紙ももらって(笑)。その温度感が僕らには全然わかんなくて、戸惑って。そういうので頭でっかちになったんだと思います、たぶん」

■たとえばその後で“天体観測”のヒットがあるよね。そこもたぶん、助長したんだと思うんだよね。

「それもそうです。だから非常に臆病な自分達にとってはとてもやり辛い世界になって。今だったら勇気を持ってお客さんを信じるところを、あの頃は信じ切れなかったというか……だから必要以上に、たとえば『ライヴってこういうものじゃん』っていうのをMCで必要以上に伝えようとして。そういうMCが聞きたいみたいな声を今でもたまにいただくんだけど」

■表向きなとんがってるMCをね。

「でも、そんな残酷なこと言わないでくれって僕は言いたいです(笑)。あの時期の俺も今の俺も同じ俺で、状況だし経験値だし、それですげえいっぱい4人なりにいろんな手段を探っていって、やっぱり自分達の音楽が一番大事で、そこを大事にしていくことが一番正しいっていうことにやっと辿り着いて、それで今があって。だから尖ってたとか丸いとかそういうことじゃないんですよね。ちょっと脱線したけど、それが答えな気がします。自分の曲、自分達の曲のこと、それからそれを受け取ってくれる人達のことを勇気を出して以前よりもより強く深く信じられるようになっていったっていうのが、まずひとつの大きな要因なんじゃないかな、制作のスピードが上がったのは」

■それを凄く明確なサインとして僕らがキャッチできたのが、東京ドームでフジが話したMCだったと思うんですよね。「こんなにも臆病な僕らが今はBUMP OF CHICKENという看板に誇りを持つことができた。誇りを持てるようになったのはあなたがたのおかげです、ありがとう」っていうことをMCで言ったじゃないですか。あれは今まで言わなかったんじゃなくて、言えなかったことなんじゃないのかなと思ったんだよね。あれが言える藤原基央が書いてる曲が今ここに並んでる曲だと思うし、そう考えると、そういう自分になれたっていう部分がとても大きいと思うんですけど。あれは「WILLPOLIS」というツアーだけのことだったのか、それよりも前にそういう自分になる起点があったのか、どうなんですか?

「知らないうちになったのか、何かきっかけがあったのか…………とりあえずMCは思いつきでしゃべってることなんで、わかんないですけど。なんかきっかけとかあったのかな…………ないんじゃねえかな。ああ、でも『COSMONAUT』を作ったのもデカいのかもしれないな。『COSMONAUT』っていうアルバムがあるんですよ、読者のみなさん!」

■そうね(笑)。

「そのアルバムを作る前、ほんとに曲が書けない時期があって。簡単に言えばスランプ的なものだったと思うんですけど。以前、1曲の歌詞が9ヵ月書けなかったっていう経験をして……それは『COSMONAUT』以前、『ユグドラシル』というアルバムの前に“ロストマン”というシングルを書いてる時のことなんですけど。あの時は曲だけ先にできていて、9ヵ月間歌詞が書けないというのを僕は経験していて。“ロストマン”というタイトルもつかなかったくらいだったんですよね。それはそれは生きた心地がしなかったんですけども……」

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text by 鹿野 淳

『MUSICA5月号 Vol.97』