Posted on 2017.09.15 by MUSICA編集部

いよいよシーンのキーマンになり始めたSKY-HI。
彼の必然と信念を解き明かし、新曲も深く語り尽くす
ライフストーリー・インタヴュー!

ラッパーは社会を映す鏡であるはずだから。
知らぬ存ぜぬの社会にするべきだって言うなら
何も言わないが正解なんだろうけど、
俺にはそれが正解とはとても思えない

MUSICA 10月号 Vol.126P.10より掲載

 

■今日はインタヴューに3時間とってます。

「ははははははは、それだけでもう、この取材がどれだけ重要かをわかってもらえますよね」

■はい。この雑誌としておつき合いを初めて1年半になるのかな。

「あー、でもまだそんなものなんですね。いろいろ話したり風穴を開けてもらいましたけど」

■こちらこそありがとうございます。今回、初めての表紙になります。これからのためにいい記事になるものを一緒に作りましょう。

「恐縮です、本当にありがとうございます。このタイミングというのは正直青天の霹靂だったんですけど、思いっ切り覚悟を決めてきました」

■このタイミングで表紙にしたのは、明確な理由があります。『OLIVE』以降、誰よりも精力的と言っていいほど精力的に、かつ意義と勇気のある活動を矢継ぎ早に繰り広げていて。さらには10月から始まるツアーでアメリカ、ヨーロッパ、アジアへ出て行くことも含めてSKY-HIとして次なるフェーズへと突入している今、改めてSKY-HIとは何なのか、日高くんがどういう意志と行動原理を持って、どういう客観性とバランス感覚の下にここまでの道のりを辿ってきたのか、そしてどれだけの攻撃性がこのソロ活動の中で芽生えたのか? そしてここからどう動こうとしているのかをこのタイミングで整理し、明確な形で世の中に伝えていくことは重要ではないかと思い、今回の表紙巻頭特集をオファーさせていただきました。

「ありがとうございます、よろしくお願いします」

■そのために、今回は最新の話だけでなく、人生を紐解いていきながら、その核に迫れればと思います。

「はい、紐解きましょう! 頑張ります!」

 

【とにかく優れた幼少期、そして死と孤独に触れた中学時代】

 

■まず人生の初期から。1986年の1212日生まれですよね。確認ですが、日高光啓というのは本名なんですか?

「本名ですね。大変ですよ、佐川急便とか来るたびに(笑)」

■そっか(笑)。一番幼い記憶はなんですか?

「親父の乗ってた車の廃車の日に、最後の記念でって助手席に乗ったのが一番古い記憶な気がします。髪の毛が生え揃わないくらいの時期」

■なんとも言えない記憶なんですけど(笑)、それを覚えてるのはなんで?

「たぶんそこで初めてカメラを向けられた意識があったからなんだと思うんです。あと、記憶って後追いで塗られて覚えていくものな気がするんですけど。3歳くらいの時にその写真を見て、『あ、これ覚えてる』って思ったから、それで記憶が濃くなってるっていうか」

■ご家族はどういう感じだったんですか?

「ウチは愛情に溢れた家族だったような気がします。姉もふたりいるんですけど、俺、親父が40くらい、母親も35くらいの時の長男だから。あと二世帯でおばあちゃんも住んでたんで、一身に愛を受けてました。俺を取り合って嫁姑間にちょっといろいろあったくらいですかね(笑)。おばあちゃんが勝手にお菓子とかあげて、俺を無責任に甘やかすから(笑)」

■そういう意味では、『サザエさん』的なアットホームな感じ?

「『サザエさん』より『フルハウス』とか、ああいう感じのハッピーさに近いかも。母親が非常にアメリカナイズされた人だったから。俺が生まれる前はアメリカに住んでたんですよ。だから姉ちゃんはあっちで生まれてて、アメリカ国籍で。姉が生まれたタイミングで帰ってきちゃったんですけど、もう2年頑張ってくれてたら俺もアメリカ国籍持ってたのに、チッていうね(笑)。グリーンカード羨ましいんだよなぁ」

■プロフィール的にいいプロフィールになったのにね、海外活動に向けて。

「そうそう。で、そんな母親だったんで、小さい頃は『光啓、Sit down!』とか『Close the door!』とか普通に言われてて。『おやすみ』とか使わなかったですね、ずっと『グンナイ』でした。小学校に入っていろんな子供と触れ合ううちに、『あれ? グンナイはマイノリティだぞ』ってなって、『おやすみなさい』って言うようになったけど(笑)。……母親は、それこそ被差別者意識が結構強いかもしれないですね。アメリカにいた時、バスで座ってると運転手さんに『ノー、ここはホワイトオンリーだからカラードは後ろのほう』って言われた、とかいうのはよく母親から聞いてたな」

■ご家族がアメリカにいたのは、お父さんの仕事の関係だったんですか?

「そうです。親父がまさにスカイハイだったんですよ!」

■ん?

「ははははは、パイロットだったんです。だから俺がSKY-HIって名乗ってるのは何気に喜んでますね。その前から親父のアドレスが『SKY NOBU』だったから(笑)。そこと (ULTRA NANIWATIC MCS)SKY-HIと名付けてもらったのは関係ないんですけどね」

■お父さんがパイロットって子供にとってめちゃくちゃ嬉しいですよね。

「大人になってから思ったんですけど、母親がよくできてたなと思います。父親は1カ月のうち家に1週間いるかいないかぐらいだから、めったに一緒にいられないんだけど、父親がいない時にずっと父親を立ててたから。そのおかげで父親に対するリスペクトは凄い強かったですね。パイロットになりたいと思ったこともあったけど、視力が早々に悪化したから、これ無理っぽいなと思って。小学生の時に親父にパイロットになるための要項を見せてもらったんですけど、もうアウトだと思って諦めました」

■日高くんは左耳に先天的な聴覚障害を持っているそうですが、これは幼い頃から自覚症状があったの?

「ほぼなかったですね。というか、みんなそういうもんなんだと思ってました。利き耳っていうのが人間みんなあって、どっちかの耳だけ使ってもう片方は飾りぐらいのもんなんだと思ってたんですけど。まぁ『シカトすんな!』みたいなことをよく言われるなとは思ってたんですけどね(笑)。でも小学校高学年くらいでさすがに、身体検査で2回くらい引っかかって。聴力検査ってピーって聞こえたらボタン押すけど、あれって周り見てたら『あ、今みんな押してんな』とかわかるじゃないっすか。それで低学年の時は勘で乗り切ってたんですけど(笑)、高学年になって初めて自意識を持って、俺はたぶんみんなとは違うと思って改めて耳鼻科で検査したら、内耳も綺麗だし外的な要因は一切見当たらないんだけど、何故か聞こえないって言われて、今に至ります」

■それは自分にとってどういうことでした?

「その時は不便だな、くらいでしたね。あんまり大ごとだと思ってなかったです。生まれた時からそれで生きてるから、そんなに大きなショックもなかったし。ただ、サッカーはどんどんやりづらくなってきましたね。コーチングが聞こえないから。小学校高学年になってくると、戦術的にだんだん高度になってくるんですよ。そうするとコーチングが大事で。だから最後のほうは右利きなのに左サイドしかやってないんですけど、それは右側で聞かないと困ることが多かったからで。まぁでも、どっちかっていうと今のほうがストレスですね。そりゃそうだって話ですけど(笑)。ま、あんまり気にしないようにはしてますけど」

■ピアノも幼少の頃から嗜んでたというふうに聞いてるんですけど。

「いや、ピアノは家にあったから弾いてたくらいで、ちゃんとやらなかったですね。マッチョイズムじゃないですか、やっぱり男たるもの」

■え、まだそういう時代だっけ? 小学生からIT長者に憧れる時代じゃなかったか。

「うーん……たぶんギリギリ?(笑)。文化系とかには行きたがらない環境だったのかな。親父もどっちかっていうと体育会系だったし。俺の部屋はキングカズのポスターだらけでしたよ。めっちゃくちゃ好きだったんですよ、もう憑りつかれたように。サッカープレイヤーになりたかったし、なると思ってましたね。根拠はないんですけど」

(続きは本誌をチェック!

text by鹿野 淳

『MUSICA10月号 Vol.126』