Posted on 2017.10.17 by MUSICA編集部

結成30周年を迎えたスピッツのツアー
「THIRTY 30 FIFTY 50」。
偉大な歴史に積み重ねられた「今」を綴る

奇跡に最も近い姿勢と魔法に最も近い音楽で、
結成30年を迎えたスピッツ。
彼らの今までと現在が見事に描かれた、
バンド史上最大ツアー「THIRTY 30 FIFTY 50」。
かつてない鮮やかなライヴで
スピッツ絵巻を披露したライヴルポと、30周年に寄せて――

MUSICA 11月号 Vol.127P.64より掲載

 

有泉「惚れ惚れしますよねえ」

鹿野「え、何に?」

有泉「スピッツの話をするんですからスピッツに決まってるじゃないですか」

鹿野「え、スピッツに惚れ惚れするの? なんで?」

有泉「いきなり敵を増やしてどうするんですか、鹿野さん。誰だってあんな素晴らしいライヴを観せられたら惚れ惚れしますよ」

鹿野「そうなんだ。いや、素晴らしいライヴだというのはよくわかるし、素晴らしいバンドだというのも言うまでもないことで。今でも若手のバンドからリスペクトされたり、活動の姿勢の目標にされるって相当凄いことだと思うんだよね。でも、惚れ惚れはしない。まったくしない」

有泉「何故ですか?」

鹿野「だってスピッツのライヴだよ?」

有泉「それじゃまったくわかりません」

鹿野「そもそも彼らにとってライヴというのは、最大の難所だったわけだよ」

有泉「鹿野さんはよく、昔のスピッツのライヴは酷かったんだと話をされますが」

鹿野「そうだね。もちろん、彼らは売れてブレイクする前から一貫して楽曲はいいわけ。だから曲を聴きに行くという意味ではライヴを酷いというのは誇張表現なんだけど、まあ一言で言えばその楽曲が可哀想なライヴだったんだよ。だって楽曲は影とか翳りゆく何かとか陰の裏にある――」

有泉「さっきから全部『かげ』で変換できる言葉ばかりですが」

鹿野「あとは陽炎的なとかかな。そういう必ずしも前向きではない表情を持っていたけど、でも凄い表情を持っているわけじゃない。それなのに、みんながみんな下を俯いて居心地悪そうにやっているだけで。しかも、その俯きがちな部分に、UKのシューゲイザーのバンドやマンチェスター勢のようなアイデンティティがあるわけでもなく。とにかく観に行った人が心配をして帰ってゆく、そしてその心配故にまた観に行ってしまうという、ライヴに関してはそういう妙な中毒性でファンを繋ぎ止めていたバンドなんだよね」

有泉「なるほど。ある意味、それも凄く濃いコミュニケーションですけどね」

鹿野「だから僕はスピッツに惚れ惚れするとかいうことを、なかなか感じることができないんだよね。これって昔から彼らを愛してきた人には割と多い感情だと思うんだよ。未だに何かがスピッツは心配だという」

有泉「たとえば、ベースを弾いいたままの田村さんの暴れっぷりとか?」

鹿野「あれは逆に、その俯き加減のパフォーマンスが失礼だと思った田村くんなりの切実なパフォーマンスだったと思うんだよね。確かに恍惚の表情を浮かべてはいるけど、でもあれは何とかしなきゃ、お客がライヴに求めているエネルギーをどうにかして自分なりに出さなきゃという神経質で気を使う彼なりのサービスだと僕は思ってる」

有泉「というかそういう話を聞いても、やはりスピッツって奇特なアーティストですよね」

鹿野「そうだね、奇特の極みだよね、スピッツは。今回のアニバーサリーツアーだって演出的にとても奇特だったじゃない、LEDヴィジョンとか」

有泉「あれはびっくりしました。今回のツアーはスピッツらしくないほどの巨大なLED映像パネルがステージ背景に登場してましたよね。私、あの感じも含めて、ハードロック的なニュアンスを今回のツアーから感じましたよ」

鹿野「ん?」

有泉「照明も、繊細さはありつつ今までのツアーよりも大胆にして豪快でしたし、サウンドもなんか筋肉質になったというかダイナミックな印象があって、ハードロック的なものを感じたんです」

鹿野「なるほどね、それは面白いね。まず今までの彼らはあそこまでLEDヴィジョンを使ってこなかったよね。それを今回使ったということにはきっと、このツアーが30年間を振り返る意味合いがあるってことと、バンド史上最大スケールでのツアーに踏み出したってことが大きいと思うんだよね。まずは記憶と記録をちゃんと感じてもらおうとした時に、LED画面というのは便利だし、過去の特定されたツアーを感じることもないから逆によかったと思うんだよ。で、ハードロックを感じたのって、たぶん、赤色とか茜色とかが多かったからじゃないかと思うんだよね」

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text by鹿野 淳×有泉智子

『MUSICA11月号 Vol.127』