Posted on 2018.05.23 by MUSICA編集部

シーンの過渡期に刻まれた『Obscure Ride』から3年、
ceroのニューアルバム『POLY LIFE MULTI SOUL』完成。
飽くなき探求心の上で奏でられる自由と共鳴、逸脱と調和
移ろいながらも時に重なり連なりゆく生命とソウルのダンス

理論が音楽家を自由にするところっていうのはあるんだなって思うんですよ。
それを今回、目の前で見せてもらった。何も知らないまま「俺は音楽で
自由を表現するんだ!」って言って進める筋道って、実はもう限られてる

『MUSICA6月号 Vol.134』より引用

 

(前略)

■『Obscure Ride』はまだ、ブラックミュージックや現代ジャズ等の文脈をどうceroに取り込むのか、その挑戦と実験だったと思うんですが、今作は明らかにその段階は超えていて、よりオリジナルでイノヴェイティヴなものを生み出そうとしているし、実際生み出してると思うんですよね。

荒内「それはあるかもしれないですね。ローカライズがいけないとは思わないですけど、まぁ単純に、『Obscure Ride』を(ロバート・)グラスパーに直接渡すとか、そこら辺、いろいろあったんですよね」

■あ、そうなんだ! ちなみに何か言われました?

荒内「いや、別に渡しただけで、聴いてないと思うけど(笑)。でも聴く聴かないは問題じゃなくて、渡した時の自分の心持ちが問題なんですよね。要は、ちゃんと自信があるかどうかっていうところなんですけど。……というようなこともあって、日本の若者が――まぁ若者じゃないけど(笑)、日本の僕らがどういうふうにやったのかとかじゃなく、単純に同じ地平に立って、グラスパーだったり、いろんなミュージシャンがやってることの先を考えて作るっていうこと、トレンドを追っていくみたいなやり方じゃなくて、その先を予想して、そこにちゃんと球を投げるっていうこと。そういう意識が今回はありましたね」

■言ってみれば、『Obscure Ride』を完成させたこと、そしてそれをライヴでちゃんと肉体化することができたこと。そういったことによってceroがその先を見て音楽を作るための礎ができた、そこに踏み出せるボディができたっていうことなのかもしれないですね。

髙城「確かにね。『Obscure Ride』を出した意味というか、そっちに漕ぎ出したことで見えたものはあるから、それは凄いそうだったんだろうなと思いますね」

■実際、今回制作をしていった手法やスタンスも、前作とは変わったんですか?

髙城「うん、変わりましたね。一番大きいのは、やっぱり一緒に音楽をやる相手が変わったっていうことなんですけど。音楽的なリテラシーだったり、これまで受けてきた音楽教育だったり実践してきたことに細かく差のある人間が集まってやってるから。僕からすると、みんな音楽を理論としてちゃんと理解してる人達で、その会話を間近で聞きながら音楽を作っていくっていう時点で、なんか『門前の小僧、習わぬ経を読む』じゃないですけど(笑)、一生懸命何を話してるのか理解しようとするわけじゃないですか。そういうことは前の段階ではなかったことだし、そういうふうに意識が変わることも多かったし。で、特に荒内くんを見てると、ある種、理論が音楽家を自由にするところっていうのはあるんだなって思うんですよ。それを今回、目の前で見せてもらった感じがあって。何も知らないまま『俺は音楽で自由を表現するんだ!』って言って進める筋道って、実はもう限られてると思うんです。そういう、音楽としてのパンクみたいなものって、どんな無茶苦茶やろうとしても結局は同じようなところにしか辿り着けなくて。音楽で本当に自由なものを作る、自由な道筋をいくつも用意してどこにでも行けるようにするためには、ある程度ちゃんとものを知ってないといけないんですよね。そういうことに今回は気づかさせてもらったなと思います」

■荒内さんは実際、音楽家として自由になったなって感覚はあるんですか?

荒内「そうですね、自由になったような……いや、でも大変でした(笑)」

■ははははははははは。

荒内「ちょっと勉強したとはいえ、専門学校の1年生みたいなもんで、そこら辺のジャズマンは当然受けてるようなことを30過ぎてひとりで勉強するっていうのは、なかなか大変だし恥ずかしいものだし、それがちゃんと身になってるのかって言われると結構冷や汗ものですけど(笑)。あと、やっぱりそうやって勉強していくと、どうしても『このリズムはこうやって作ります』みたいに頭デッカちになりがちなんですよ。そこから抜けるのが大変でしたね。途中でダース・ベイダーになっちゃいがちというか」

(続きは本誌をチェック!)

text by有泉智子

『MUSICA6月号 Vol.134』