Posted on 2014.03.19 by MUSICA編集部

TK from 凛として時雨、『contrast』リリース。
自らを解放し、本格的なソロの証を刻む今作の深淵に迫る

歪んだギターの中にあるトゲトゲしたポップさは
時雨にしかないもので、そこは伝わってくると思うんですけど。
でも、その歪んだ音という化粧を薄くして、素にしてみたらどう伝わるんだろう?
自分のポップがちゃんと伝わるのかな?
っていう想いが、このソロを作る最初にありましたね

『MUSICA 4月号 Vol.84』P.56より掲載

■去年は凛として時雨としてアルバムを出し、武道館ライヴという証も打ち立て、その後にTK from 凛として時雨として何本かの夏フェスにも登場した年でした。その辺も含めて、ソロのTKとしての活動が今回来たというのは、ある意味必然だったとも思うんですが、どうですか?

「時雨が10周年というところで武道館をやれて、自分達の中でそんなに実感のあるものではないんですけど、一応一区切りできたっていうところはあって。時雨は(ピエール)中野くんがいて、345がいて……ある程度不完全なままでも成立してしまうところもある、ギリギリの崖っぷちの中で音を紡いでいるところでもあるんです。だから3人のバランスが完成していけばいくほど、『自分はひとりになったら何を持ってるんだろう?』って想いが出てきて――弾き語りやり始めたのもそれにあたるんですけど――自分の持ってるものを究極のところまで確認したい衝動に駆られたんですよ。武道館のあとの活動も、その欲求がエネルギーの源になってる感じはありますね」

■ちょっと前の話になるんですが、去年の凛として時雨のアルバム(『I’mperfect』)のプロモーション時に、リズム&ドラム・マガジン、ベース・マガジン、ギター・マガジンの表紙をそれぞれのメンバーが飾ったじゃないですか。あれ、とても戦略的なことだと思ったんですね。凛として時雨というバンドが、3人の「個」というものをしっかり表していく――それが今の凛として時雨だっていうイメージを感じて。TKは、自分のソロプロジェクトにも「from 凛として時雨」とバンド名を表記しているじゃないですか。この辺りにはどのような気持ちが表れているんですか?

「バンドが始まってから今まで、僕の頭の中にある音楽を3人でどう鳴らすかっていうのが根底にあって。あのふたりもそこに対して、常に待っててくれてるんです。僕の視点から見てると、あのふたりのキャラクターっていうのは、時雨の中の立ち位置として凄く確立していて。でも逆に自分自身は一体なんなんだろうっていう気持ちがあって……そういうところで、バンドと個っていうものの対比を意識し始めてるところはあるかもしれないですね」

■今までのソロの2作っていうのは、時雨で作りたかった映像作品をソロとしたり、ピエールが怪我したから空いた時間で作ったりという、偶発的なものでしたよね。ただ、去年の夏は凄くフラットにソロとしてライヴをしていて。そこで僕が感じたのは、TKの中でひとつ、凛として時雨に対して肩の荷が下りたんじゃないかと。だからこそ、ソロも定着させていく意識を持って今作に辿り着いてるところがあると思うんです。

「時雨に対してどのくらい肩の荷が下りたかっていうのは、言われるとそうかもしれないなって思うぐらいで。どちらかと言えば、ソロをやることで自分自身がずっとやってきたバンドっていうものを俯瞰して見れるっていうところが大きくて。ソロの活動の中で、自分の頭の中に鳴っている音を視覚的な部分も含めて表現する中で、いつも本当にいろんな調味料を使って音楽を再現してて(笑)。それを経て、今まで自分がバンドに対してストイックに自分自身の首を絞めながら音を作ってたところも、ソロをやったことで少し緩めてバンドに戻れたら、それはそれで楽なのかなと思ってたんです。……でもどっちかと言うと、締めたまんまでよかったんだなって思えたことが凄く強くて。もちろんソロのプロジェクトっていうのは、ひとりっていうことの余白を凄く楽しんでいる部分もあるんで、バンドの時よりは自分の手の届かない部分も、他のミュージシャンに任せて楽しみながら自分の音を創り出してみたいって想いはあるんです。でもそこで時雨のほうを振り返ってみると、究極の自分のわがままの塊みたいなものが、あのバンドの中に存在してるんだなってことを凄く感じて。だからソロをやることで、解放的な自分の余白みたいなものをそのまま時雨に当てはめるようになったというより、時雨は時雨として自分の中で強い存在として改めて感じられたっていう部分がありますね」

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text by 鹿野 淳

『MUSICA4月号 Vol.84』