Posted on 2018.03.21 by MUSICA編集部

ロックバンドに焦がれた原風景と本来の自分を解き放ち、
BLUE ENCOUNTの実像と未来を鮮やかに鳴らした
アルバム『VECTOR』。内なるカオスと闘い続けた日々と、
それを打ち破った光の在り処を、田邊とガッツリ語る

俺は青春を感じたことがない人間だった。だけど、
夢を叶えることのさらに先へ希望を持って進めるのが
青春なんだなってわかったんだよ。だから、バンドをやりたいと思った頃に
思い描いた「音楽」に初めて出会えたんだろうね

『MUSICA 4月号 Vol.132』より引用

 

■BLUE ENCOUNTがBLUE ENCOUNT本来の形になった、そういう晴れやかな感覚のある作品だと感じました。アッパーなリズムが軸になって、音楽からポジティヴなものがガンガン聴こえてくるアルバムですね。

「嬉しい。これまでとの違いが何かと言えば、『振り切りました』というより、ようやく『吹っ切れました』っていう感覚で。今までを振り返ると、『毎回違うことをやる自由なバンドでいたい』って言ってたくせに、その結果として自分達を自分達で窮屈にしてたところがあったと思うのね」

■それは音楽的な話? それともパブリックイメージの話?

「その全部かもしれない。どっちが先かはわからないんだけど、たとえば『BLUE ENCOUNTのパブリックイメージをどうしていこう』って決めれば決めるほど自分達がわからなくなっていたと思うし。で、そうやって迷いながら、その都度『見つけた』って言いながら前に進む方法でやってきたと思うんだけど、見つけたフリをしていた時もあったのかもしれないなって、今だから思うこともあってね。じゃあ真逆に振り切って音楽だけに集中してみようと思ったら、今度は口をついて出てくるのが『“もっと光を”みたいな曲にしよう』とか、『“LAST HERO”のイメージで』とか、そういうことばっかりになっていって……結局、自分達の固定概念を固めて窮屈にしているのはいつも自分達自身だったなって思うんだよね。まあ、バンドのイメージや立ち位置があるのはいいことだとは思うんだよ? それが自分達の武器になっていくこともあるし。だけど、俺達の場合は以前の曲にただ縛られているだけになっているような気がしてたの」

■だからこそ、作品を出すごとに「誤魔化していた部分があった」とか、「闇が消えない」っていう言葉で自分の中にある壁を表現してきたのかもしれないですよね。その窮屈さや壁をどう打破して、「吹っ切ろう」っていう気持ちに至れたの?

「やっぱり、去年にやった『TOUR 2017 break“THE END”』がデカかったと思う。あのツアーの佳境に差し掛かった辺りから、自分達で自分達を窮屈にしていたところを壊せるようなムーヴメントが生まれていった気がしていて。そこからのテーマが、言葉にしたら少しチープなんだけど『吹っ切ろう』っていうものになっていったんだと思う。そしたら、そもそも『イメージが云々』っていう話自体、BLUE ENCOUNTを組んだ高校時代から『毎回違うことをやって人をドキドキさせたい』って言ってた自分達のやることではないじゃん!って思うようになっていったんだよ。違うことをやるのが目的になるんじゃなくて、とにかく今に素直でいたいっていう話だったじゃんって思い返してさ」

■そもそもの原風景に回帰していった感覚?

「そうなんだと思う。積み重ねてきたものに凄く感謝はあるし、応援してきてくれた人達への感謝もある。で、それが糧になっているんだって考えたら、だからこそ今思い切りできることがあるんじゃないかって思えるようになってきたんだよね――」

(続きは本誌をチェック!)

text by矢島大地

『MUSICA4月号 Vol.132』

Posted on 2018.03.21 by MUSICA編集部

2010年代のバンドシーンを一気に駆け上がり、
明日に向かって確かに地を蹴り走り続けるKANA-BOON。
初のB面集『KBB vol.1』全曲解説インタヴューにて
その歩みを、想いを、今一度すべて振り返る

当時は、いわゆる恋の歌とかに対して、あんまり大事にしようっていう
気持ちがなかった気がしてて。特にこの時期は、
ここからバンドが新たな始まりを迎えていく中で、
ちゃんとバンドを背負って歌っていかないとなっていう想いがあった

『MUSICA 4月号 Vol.132』より引用

 

1. スパイラル

―2015年『ダイバー』収録―

 

■このパワフルなガツンと来る曲調が始まりに相応しいんですが。作った時のことは覚えてますか。

谷口「覚えてます。セッションでガンガン曲を作っていってた時期にできて、後々『NARUTO』のゲーム(NARUTO-ナルト-疾風伝 ナルティメットストーム4)のタイアップの話をもらって、それに向けてまた詰め直していったんですけど」

古賀「ゲームのタイアップなんで、8ビット感みたいなのを凄い出したかったんですよね。イントロのリフレインとかも機械音を意識したりとかして、それが上手いこと僕の中では表現できたなって思います。ゲームのキャラクターの必殺技があるんですけど、その音みたいなのを間奏で使ってみたりとか。自分の想像したものを音にするっていうことを初めてできた曲ですね」

飯田「古賀のリフが先に結構決まってて、しかも印象深いヤツやったんで、それをなぞるのはダサくなっちゃうかなって思った記憶がある」

谷口「『ダイバー』の頃ってことは、精神的には結構いい状態やったよな?」

飯田「うん、レコーディング苦手ゾーンではなかった……はず(笑)」

谷口「“ダイバー”を『BORUTO -NARUTO THE MOVIE-』の映画主題歌として作って、さらにゲームの主題歌もやらせてもらえるってことで舞い上がってたんやと思う。そういうエネルギーも込みでバンドが回っていた時期やと思いますね」

飯田「うん、だからむしろやってやるぜゾーンだった気がする。スパッと録れて『やった! 疾走感も出たぜ!』ってなった記憶があるから、結構疾走感は出てると思います。この辺の時期からいいテイク録れるっていう楽しさみたいなのがあって、エンジニアさんが『いいテイクと悪いテイクはどういうことなのか?』を、ちゃんと弾ける/弾けへんってことではなく、テイクの空気感って意味で伝えてくれたんで、レコーディングはいいものを早く録れるっていう時期になってて」

■その前は悩んでたの?

飯田「その前は何を言われてるのかがよくわからなかったですね(笑)。今は『0.0何秒でこんだけ塗り替わるんだよ』っていう聴き比べもできるようになりましたけど」

小泉「僕もこの曲は手こずった覚えはないですね。割と勢いでいけた感じ。始めのフレーズが躓いた記憶はあるんですけど、割とセッションの勢いの中で、キメをちゃんと決められたなっていう覚えがある」

古賀「2サビのバチのカン!っていう音、何回も録り直したよな」

小泉「よう覚えてるな(笑)」

古賀「覚えてるって!(笑)」

(続きは本誌をチェック!)

text by有泉智子

『MUSICA4月号 Vol.132』

Posted on 2018.03.20 by MUSICA編集部

SHISHAMO、2018年一発目のシングル『水色の日々』。
急成長を遂げている今、小林武史と組んだ理由から
紅白以降の意識変化、念願の出来事までを宮崎朝子が語る

バンドとしての見られ方だったり、今まで凄く慎重に
やってきたじゃないですか。ここまで来たらそんなしょうもないこと
気にしてる場合じゃないなって。そんなことよりもっとやるべきことがある、
もっと広い目で大きくならないとダメだなって

『MUSICA 4月号 Vol.132』より引用

 

■今回の“水色の日々”は、SHISHAMO初のプロデューサーとして小林武史を招きました。宮崎が作る曲が、あんなにも小林武史とハモるとは想像もしてなかった。正直、びっくりしました。

「(笑)あ、そうですか?」

■この曲は小林さんとやる体で作った曲なのか、もしくはそれとも紆余曲折があってこうなったのか、その辺から聞かせてもらえますか? 

「小林さんとやるってことと曲が生まれたのは別ですね。“水色の日々”はカルピスウォーターのCMの曲なんですけど、そもそもは曲自体は本当に、カルピスのために曲を書こうっていうことだけで書いている曲なんです。で、その上で、小林さんと一緒にやることにしたっていう。今までは自分達だけで音楽を作ってきたんですけど、やっぱりずっと、自分以外の誰かのクリエイティヴが入った音楽にも凄く興味があって。正直、絶対に自分達だけでやるんだ!みたいなこだわりは、凄いあるっていうほうではないというか、一番大事なのはいい曲を作るってところだけだと思っているので。そのためだったら、セルフプロデュースがどうとかは気にするべきことじゃないなって思っていて。それで誰かと一緒にやってみたいなと思ってたんですけど、カルピスのCMになる曲を作って、なんとなく『あ、このタイミングだな』っていうふうに思ったんです」

■そうなった時に小林さんにオファーしたのは、SHISHAMOの新しい世界観を宮崎がイメージしたからなの? 

「正直に話すと、誰か他の人と音楽を作ってみたいなっていう気持ちになった時に、小林さんしか浮かばなかったんですよね。むしろ、小林さんじゃなかったら他の方とご一緒するのが意味がないくらいの気持ちでした。…………小林さんって、音楽とか関係なく普通に生活してる人の耳に一番入っていく音楽の作り方を知ってる人なのかなと凄く思っていて。私は『いい音楽を作る』っていうことにおいてはプロとしてやらせていただいてるんですけど、『みんなに聴いてもらえる曲を作る』っていうことのプロではないんじゃないかっていうのがあって……そこのプロの人と一緒にやってみたいなっていう気持ちがありました」

■その「聴かせ上手の小林武史」っていうのは凄く言い得て妙だと思うんですが、具体的にどういうところから感じるんですか?

「小林さんが手がけてる曲って、みんな知ってるじゃないですか(笑)。調べてみると『あぁ、これも小林さん!』ってなる曲ばかりなんですよ。音楽を好きな人じゃなくてもこの曲は知ってる、という曲が多い。……私はやっぱり、みんなに聴いて欲しいっていうのが強くあって。自分がいい曲だって思ってても、売れなかったら意味がないというか――ここで言う売れるっていうのはみんなに聴いてもらうってことなんですけど――そういう意味で、ちゃんと売れる曲を作る人っていうふうに思ってました」

■実際に一緒にやってみて、そこに秘技はあったの?

「単純に凄い楽しかったんですよ。『やっぱり私は音楽を始めたばっかの人なんだ』って自分のことを思ったっていうか――」

(続きは本誌をチェック!)

text by鹿野 淳

『MUSICA4月号 Vol.132』

Posted on 2018.03.19 by MUSICA編集部

新たなフェーズを突き進むMAN WITH A MISSION、
Take Me Under / Winding Road』最速取材にして、
挑戦的な過渡期を邁進し実りの時期を迎えつつある今を語る

今ハ新シイ「世界ノ崩壊」ヲミナサンガ目ノ当タリニシテル時代ニ来テル。
世ノ中ノ終ワリガ既ニ目ノ前デ起コッテイテ、自分達ガソノド真ン中ニイル、
モノ凄イリアルナ不安ガ世ノ中デ蠢イテイルノヲ肌デ感ジテイル。
果タシテソレヲドウ表現デキルノカ?ハ最初ノ着想ポイントデハアリマシタ

『MUSICA 4月号 Vol.132』より引用

 

■UKツアーからお帰りになったばかりで。

「ハイ、ツイ4日グライ前ニ帰ッテキタバカリデスネ」

■前回渡英した時よりもワンマンのキャパも上がっていっていて、着実に状況を上げていると伺ってるんですが、実際どうでしたか?

「メチャクチャイイツアーダッタト思イマス。最初ニUKニ行ッタ時ハキャパハマダ小サカッタンデスケド――」

———はい! 早速ですが、ここからは読みやすさを考えまして、筆者が滑らかな日本語に翻訳してお届けします! ではどうぞ!———

「今回が600人くらいかな。で、ありがたいことにソールドしたので。地道ではあるのかもしれないですけど、確実に爪跡残せているというのは嬉しい限りですね」

(中略)

■昨年11月に『My Hero / Find You』というダブルA面シングルを出し、この2月からはスカパラをフィーチャリングした新曲も配信になっているわけですが、4月18日には『Take Me Under / Winding Road』という、これまたダブルA面のシングルがリリースされます。つまり昨年の秋以降、精力的にリリースを重ねている印象があるんですけど、今はMWAMにとってどんな時期に当たるんだと思います?

「危機感を持った言い方をしてしまうと、バンドにとってちょっと過渡期というか。そろそろもっと違うことだったり、あるいは、今までやってきたものに対して何かしらの楔をきっちり打つ時期が来てるのかな、というふうには感じますね。ここ2年ぐらい新しいプロデューサーだったりアレンジャーといろいろな試みをしてきて、自分達の中ではいろんな実験をしてきたわけですけど。つまりここ何作かは、自分達自身に対しても、そして聴いてくれている観衆に対しても、実はちょっと投げかけというものをしていた作品だったと思うんです。だからこそ、その上でどっしりと、『これだ』っていうものを出す時期に来てるのかなっていう感じはしますね」

■今のお話はよくわかります。『Tales of Purefly』、『The World’s On Fire』という2枚のアルバム、特に『The World’s On Fire』は重鎮ドン・ギルモア、そしてショーン・ロペスという海外のプロデューサーを立てて、初期の頃のフィジカルでアッパーなエネルギーで観衆を巻き込んでいったのとはまた違う、音楽っていうもの、ロックっていうものが宿し得る奥深さと壮大さを自分達の楽曲に宿らせ、提示してきたと思うんですよ。

「そうですね、ほんとにそういう作品になったような気がしますね」

■今ジャン・ケンさんがおっしゃった楔を打つべき時期だというのは、そこで得た手応えをもってのことなのか、それとも特にここ2〜3年くらいで、MWAMが出てきた初期の頃とは音楽シーンの景色が変わってきている中で感じているのか、その辺りはどんな感覚なんですか?

「どちらかというと前者だと思いますね。『Tales of Purefly』、『The World’s On Fire』で、自分達が好きだったロックの深遠さや壮大さっていうものをこのバンドでやるとこうなるんだよ、というものをみなさまに見せつつ、自分達でも再確認していったところがあったんですよね」

(続きは本誌をチェック!)

text by有泉智子

『MUSICA4月号 Vol.132』

Posted on 2018.03.18 by MUSICA編集部

THE ORAL CIGARETTES、個別インタビュー連載開始!
第1回:ギタリスト・鈴木重信。
何も得られず、誰にも溶け込めなかったシゲが
「オーラルだけは失うのが怖かった」と覚醒する日まで

今になって思うと、求められることをほんまに欲してたんだろうなって。
何か突出してできることがなかった自分に対して、
求めてくれる人間がいなかったから。

『MUSICA 4月号 Vol.132』より引用

 

(前略)

■そもそもシゲは、このバンドに入る前からミュージシャンになりたいっていう気持ちを持っていたんですか。

「いや、まったく持ってなかったです(笑)。高校の時に軽音楽部に入って、楽器に触れるっていうのはそこが初めてだったんですけど……正直言うと、その時の環境に対しては『音楽やるってこういうことなんだ、しょーもねぇな』って思ってたんですよ。周りの軽音楽部のコミュニティの小ささとか、内々でやってることに対して『なんか違うな。なんか違うけど、まぁでもこの目の当たりにしてるものが、きっと音楽の世界なんだろうな』って思ってて。『きっと俺には音楽じゃないんだろうな』って感じてたんですよね。だから大学に入った時には、軽音楽のサークルや部活にはまったく入らずに、自分で好きな音をコピーしてました。当時はアコギだけしか弾いてなかったんですけど」

■昨日、このバンドのWikipediaを初めて見てみたの。そしたらそれぞれ影響を受けた音楽が書いてあって、シゲのところにDEPAPEPEって書いてあったんだよね。これ、本当なの?

「それはほんまっすよ! 大学の時にアコギで弾いてた曲はDEPAPEPEばっかりでした。今でも大好きですし」

■いい悪いじゃないの、素晴らしいユニットだし。ただ、シゲとDEPAPEPEという組み合わせが意外で。

「よく言われます(笑)。バックボーンにしては対極的過ぎるって」

■大体顔がDEPAPEPEじゃない。

「ははははははははははははははははははは」

■アコースティックに魅せられていたのは何故だったんですか。

「アコースティックっていうよりは、インストゥルメンタルに魅せられてたっていうのが大きかったですね。当時、声とか歌詞に惹かれることがそんなになくて。で、ギターが奏でるメロディに惹かれてたんですけど、その中でDEPAPEPEを聴いて『ギターでこんな美しいことができるんだ』っていう憧れを抱いて、そこに理想を求めてたのかなと思います」

■ということは、高校の時に軽音楽部に入って周りに幻滅しながらも、それでも音楽に対する興味と向上心はあったっていうことなの?

「そうですね。ただ、楽器に関心があっても、音楽に対しては全然まだ芽生えてなくて。そもそもJ-POPしか聴いてなかったですしね。でも、高校の時の友達に、洋楽も聴くし70年代〜80年代の音楽も教えてくれるやつがいて。テレビとかよりもライヴ中心に活動してるバンドのことを教えてくれたのもその友達やったんですけど、彼の影響で9mm(Parabellum Bullet)をコピーしたりUVERworldのライヴに行ったりするようになって」

■幼稚園、小学校、中学校と拓也と同じだったわけですよね。その間の音楽的な交流はどういうものがあったんですか。

「実は中学以降の交流は、音楽含めてまったくなかったんですよ。でも小学校まではよく一緒に遊んでて。小4、小5くらいの時に――」

(続きは本誌をチェック!)

text by鹿野 淳

『MUSICA4月号 Vol.132』

Posted on 2018.03.18 by MUSICA編集部

誰かのために歌いたい――真摯な想いの下に生まれた
THE ORAL CIGARETTESの新曲“ReI”。
敢えて無料配信にこだわり、聴いてもらうことだけに賭けた
その奥の奥にある想いをメンバー全員で語る

俺はそもそも、音楽で世の中が変わるなんて
綺麗ごとやと思ってきたんですけど、
“ReI”が『それは違う』っていうふうに番狂わせしてくれたんですよ。
自分も忘れかけていた音楽の力を感じさせてくれた

『MUSICA 4月号 Vol.132』より引用

 

(前略)

■この曲、だいぶ前から完成していたと認識してるんですが、これだけヒットしそうな曲なのに、無料ダウンロードという異常とも言えるリリース形態になっていて。ホームページに載っているメッセージを拝見する限りでは、この“ReI”という曲があっての「ReI project」であると。“ReI”の無料配信だけじゃなく、また新しいことが始まっていくという意識を感じてます。この曲ができたところからいろんなことがスタートした、その辺のことから全部教えてください。

山中「いつもインタヴューでも言ってますけど、僕は自分の心と会話するように曲を書いたり歌詞を書いたりしてきたんですね。それしかしたことがなかった中で、初めてと言っていいくらい、純粋な気持ちで誰かの救いになるような曲を!と思って書けたのが“ReI”だったんです。それが一番デカいんです。だからね、今までやったらこの曲が埋もれてる可能性もあったんですよ。だけどデモでみんなに送った時点で『これで伝わらなかったら、そのレベルの曲なんやな』と思えたんです。で、デモを送ったその日にいきなりマネージャーから電話があって、『この曲は凄い力を持ってる』って言ってもらって。『ちゃんと届いた』っていう確信になったんです。……それに対して、ミュージシャンとして責任を持つっていう意味でのお金の取り方をしてもよかったかもしれへんけど、それ以上に、とにかくこの曲が広がることのほうが大事やったんですよね。それが無料ダウンロードにした理由のひとつ。あと、たとえば熊本の震災が起こった時とかに『大丈夫ですか?』っていう言葉も大切やと思うんですけど、自分は『それよりもやるべきことがあるんじゃないか』って思ってた人間やし、今ならすぐ曲を書いてTwitterに流したっていい時代やと思うんです。それもあって、ただただミュージシャンがやるべきことをやっただけやから、対価も見返りも求めないですよっていう曲ですね」

■自分のためにしか曲を書いていなかった拓也が人のために曲を書くようになったのは、自分のことだけを書く自分が嫌だったのか、了見を広げたかったのか、圧倒的な契機があったのか、どうしてだったんですか?

山中「自分の心を180度変えてくれた人がそこにいて、変えてくれた人がいるなら今度は自分達が返そうっていうギヴアンドテイクの気持ちだけかもしれないです。この曲を作ろうと思ったのは、南相馬に行ったことが大きなキッカケだったんですけど……それまでは、震災、原発、戦争みたいに、自分が体験したことのないものに対してわかったかのように歌うのは無責任過ぎるとずっと思ってきて。で、そういう考えを持っている上で南相馬にライヴで行ったんです――」

(続きは本誌をチェック!)

text by鹿野 淳

『MUSICA4月号 Vol.132』

Posted on 2018.03.17 by MUSICA編集部

アジカン、『BEST HIT AKG 2 (2012-2018)』をリリース、
次なるアルバムレコーディング真っ只中のスタジオに突撃!
後藤単独&全員インタヴューの2本立て取材実施!
この7年を振り返ると共に、まさに今、見つめる先を追う!

社会的な意味で大人になっていく時に大きな出来事があって、
バンドとしても個人としても決意をしなければならなかった時期で。
そのストラグルしてる感じがそのまま音になってる。
立ち直っていくような期間だった気はしますけどね(後藤正文)

『MUSICA 4月号 Vol.132』より引用

 

#Interview1 後藤正文

(前略)

■今回の『BEST HIT AKG 2』は2012年以降にリリースされた作品からのベストアルバムですが、制作時期として考えると2011年から今に至るまでの軌跡になっていて。2010年の『マジックディスク』と、2011年に東日本大震災が起こった後に制作に入った『ランドーク』の間にはアジカンとして明確にひとつ区切りがあると思うし、そういう意味で第2期アジカンのベストと言っていいと思うんですけど。後藤さん的には今回まとめてみて何か思うことはありましたか。

「後づけではあるんだけど、確かに並べてみたら震災以降な感じは立ち上がってきましたね。でも最初からそういう意図があったわけじゃなく、本当に活動的な問題というか。単純に、アルバムが間に合わないから(笑)」

■(笑)つまり本来であればニューアルバムをリリースしたいタイミングだったけれども、そこに関してはもうちょっと時間かけて悩みたい、と。

「そう(笑)。アルバムをもうちょっと足掻きたいから、先にベストを出しておこうって(笑)。でも、本当に奇しくもなんだけど、鎮魂歌で始まって鎮魂歌で終わる作品になってるんだよね。意識したわけじゃないのに、こうやって聴いてみると亡くなった人達を悼むようなフィーリングが、最初の“夜を越えて”と最後の新曲“生者のマーチ”にあって。やっぱりここ数年、自分の中で大きいことだったんだなって改めて思いました。……(ここに収められている7年は)社会的な意味で大人になっていく時にああいう大きな出来事があって、バンドとしても個人としてもいろいろな決意をしなければならなかった時期で。そのストラグルしてる感じがそのまま音になってるなって。自分ではそれが面白かったですね」

■この期間は、もう一度アジカンというものを正面から見つめながら、自分達がどんなアティテュードでどんな音楽を鳴らすべきなのか、自覚的な再構築を果たしていった時期だったと思うんです。後藤さん個人としてもソロやプロデュースワーク、『THE FUTURE TIMES』などの活動含め、変化が大きな時期だったと思うんですが、ご自分ではどんなふうに捉えてらっしゃいますか。

「どうだったんでしょうね……もし(2011年3月に)ツアーが震災で中止になっていなければ、あのツアーが順調に終わってアジカンは解散してたと思うんで。解散というか、少なくとも俺がドロップアウトしたはずなので。当時は完全にもう嫌気がさしてたから。でも震災の後、またこのスタジオ(この日取材をした横浜のLANDMARK STUDIO)から始めて……そういう意味では、立ち直っていくような期間だった気はしますけどね」

(続きは本誌をチェック!)

 text by有泉智子

『MUSICA4月号 Vol.132』

#Interview 2 メンバー全員で振り返るこの7年と今

 (前略)

■『BEST HIT AKG』が出た2010年くらいまでの自分とアジカンの関係性と、それ以降の自分とアジカンの関係性ということで考えると、その距離感はどんなふうに変わってると思いますか。あるいは、今はどういう部分をより大切にするようになっている、とかあります?

全員「…………………………………」

後藤「発言しろよ!(笑)」

伊地知「でも僕はさっき言ったのが凄く大きいですね。やっぱり外と関わると凄く変わるんで……だから(自分がアジカンでの活動を始めた)当時は他のメンバーにもやって欲しいなって思ってたんですけど、必ずしもそんなことはないので。このままあんまり客観視できないままいて欲しいなって思いますけどね」

後藤「建ちゃんに対する皮肉だよ、これは(笑)」

喜多「はははははははははは」

伊地知「いや、建ちゃんの話聞いてると、本当にアジカンのこと考えてるなって思うんですよね。凄く愛を持って説教されますし。僕は愛がないってよく言われるんですけど(笑)。建ちゃんはアジカンの楽曲に対する愛情が凄く強いので、それはそれでいいなと。本当に変わらないで欲しい」

後藤「というか、愛しかないからね」

喜多「愛だけ!? そこが問題なんだと思うけど(笑)」

伊地知「メンバー内で『オールドファン』っていうキーワードがよく出るんです。その目線で建ちゃんが割と言ってくれるんですけど――」

後藤「そうそう、そんなんいるなら連れてこいよっていっつも言ってるんだけど(笑)。そのオールドファンって、つまりは建さんだろ?って。勝手に作り上げてファンに語らせるなっていう(笑)」

喜多「(笑)。最近はサウンドプロデュースというか、時代に合った音っていう部分でゴッチが引っ張ってくれてるので、凄く信頼していて。じゃあ僕は好きなアジカンというか……楽曲のよさ、メロディのよさっていうのを大事にしてメンバーに言い続けるっていう役割ではいたいなって思って。そういう意味で、オールドファン。もちろん新しいこともしたいけど、アジカンがそもそも持ってるいいところを失いたくない」

 

(続きは本誌をチェック!)

text by有泉智子

『MUSICA4月号 Vol.132』

Posted on 2018.03.16 by MUSICA編集部

デビュー31年目に世に放つ超ド級の名曲“Easy Go”!
構想2年、この名曲はいかにして生まれたのか。
宮本は今、何を想うのか。
ツアー&紅白振り返りも含めすべて語り尽くす表紙巻頭特集

僕はもっともっと凄いものだっていうふうに誤魔化してたというか、
凄いっていうふうに思いたがってたんだと思う。
でも、それを今、30周年のツアーで私は心の何かを白日の下に曝け出した。
心の何かを、自分が一番大事にしている部分を曝け出すことができたんです

『MUSICA 4月号 Vol.132』より引用

 

(前略)

■先ほどから“ファイティングマン”という言葉が何度も出てきておりますが、実際にこの曲の中からは新・ファイティングマン感がもの凄く感じられますし、1番のAメロでは<行け男よ>という言葉が出てくることも含め、エレファントカシマシの本っ当の真ん中が歌われてますし、今宮本さんが話してくれた通り、非常に4人感がハンパない、つまりは獰猛なロックバンドサウンドになっている。エレカシは、EPICソニー時代を終えてポニーキャニオン時代に入って以降、どれだけ自分達の歌が「いい歌」にして「大衆的な歌」となり得るのかという部分で試行錯誤をしてきたと思うんですが、ここまで世の中や状況を顧みずにエレファントカシマシはエレファントカシマシでいいんだ!と突き抜けた気持ちでやっている曲は、とても久しぶりな感じがするんですよね。

「はい」

■たとえば“ガストロンジャー”という曲も、ポップであることや大衆的であることよりも、宮本さんがやりたいことに突っ切っていった時期の楽曲であり、ロックバンドとしての獰猛性が強く出てる曲なんですけど、でも実はあの曲の成り立ちは、バンドというよりも宮本さんのソロ的な要素が強かったわけで。つまり“ファイティングマン”を更新する音楽として4人の生々しいバンド感を迸らせる楽曲は、EPICソニー時代以降、初めてと言ってもいいんじゃないかと思うんです。

「あー…………………これは我々のというよりも、私の技術の進歩としか言いようがないというか………バンドというものの見せ方というかですね………いや、見せ方っつうとアレだな………諦め、ですかね。これまたテンションが下がるって言われちゃうけど」

■(笑)。

「要は、無理に………………………………こないだ僕ね、億万長者のなんちゃらみたいな本を読んでたんですよ。たとえばですよ、ビル・ゲイツには8兆円の資産がある。対してポール・マッカートニーは1,000億だか2,000億だかの資産がある。その話は気になってはいたんです。夏目漱石も、なんで俺はこんなに金持ってねえんだ!っていうニュアンスのことを言ってたんですけど、俺もやっぱり………まぁロックミュージシャンってそんなに金持ちかって言ったらいわゆる実業家と比べたら大したことないし、大金持ちは金が好きな人がなるものなんだなとは思うんだけどさ、ただ、ビル・ゲイツの発明と俺の発明とどっちが上だ?って考えて夜中に眠れなくなったりももちろんしてるんだけど……それは置いといて。私は歌が一番の得意で、人前で歌うことも得意で、だから自分には一番向いている仕事だと思ってやってます。で、“男は行く”を作った時も“ガストロンジャー”を作った時も、もっともっと凄いものだっていうふうに誤魔化してたというか、凄いっていうふうに思いたがってたんだと思う。でも、それを今、30周年のツアーで私は心の何かを白日の下に曝け出したんです。心の何かを、自分が一番大事にしている部分を曝け出した。それはみんなの前で“悲しみの果て”を歌いながら涙を流すっていうことではなく、4人でやってる中での自分の一番大事な何かを曝け出すことができた。しかも紅白歌合戦でも、みんなが観てるテレビの中でそれを曝け出すことができたんです。そうすると何かこう、自分っていうのは………お前は自分を天才だと思ってたのかと言われたらその通りなんですけど、もの凄い天才的な技術を……それこそ(葛飾)北斎じゃないけど、ようやく私は51になって自分の音楽を正統に評価すると言いますか、自分が求められていること、エレファントカシマシが求められていることをそれなりに理解したんだと思います。それって鹿野さんが言った『バンドを認めることができたんですね』っていうのに近いと思うんだけどさ、そういうことだと思うんです。で、そうなったからこそ、この曲も4人でやってるエレファントカシマシという見せ方を上手くできたんだと思う。だから何がなんでもこの4人でのバンド演奏にこだわったし」

(続きは本誌をチェック!)

text by鹿野 淳

『MUSICA4月号 Vol.132』

Posted on 2018.03.16 by MUSICA編集部

「僕は、僕達は、バンドを組んでよかった!」
BUMP OF CHICKEN史上最長ツアーのファイナルにして、
「22年目の結成記念日2月11日」さいたまスーパーアリーナ
PATHFINDER完全密着vol.4!!!

「PATHFINDER」密着シリーズ第4弾は、
「ファイナル」さいたまスーパーアリーナ公演。
バンドにとって22回目の誕生日でもあったこの日、
いつになく感情的にライヴを行った4人の様子を全14Pで徹底レポ

『MUSICA 3月号 Vol.132』より引用

 

バンド史上最大にして最長のツアー、「TOUR 2017-2018 PATHFINDER」のファイナルが、久しぶりのさいたまスーパーアリーナにて開催された。新年を迎えてからの藤原基央のインフルエンザ発症によって福岡公演の2日間が3月17日、18日に延期され、現実的なファイナルは福岡公演となったが、前々号の完全密着にて報じた年末最後のライヴ=徳島公演での様子からもわかる通り、演出やグッズなどを含め、彼らはこのさいたまスーパーアリーナのファイナルに向けてカウントダウンをしてきた。なので、福岡があろうとも、そして延期したことを含めその福岡でのライヴを特別に大事にしようとも、「あくまでもさいたまがファイナルだ!」という意識はメンバーもスタッフも持って迎えた2デイズである。そのファイナル2デイズの2日目、2月11日の模様を、恒例の完全密着にてお届けする。

(中略)

13時14分。今日がファイナルであってファイナルではないという、特別と言えば特別な日であることのMCを含めた諸々の段取りを、チャマがスタッフとしている。「今日はファイナルなんだよ。何があってもファイナルなの。でもまだライヴはあるの(笑)。もちろん、それが最高に嬉しいことなの。でも今日はファイナルだし……福岡でもちゃんとやるけど、それでも今日は特別なライヴにきっとなると思うんだよ。だからそのことを丁寧に伝えたいし、丁寧に考えたいんだよね」とチャマが話してくれる。そのチャマがベースを抱えて激しいストロークを重ね出すと同時に、翌日12日があるスタッフの誕生日だということをマネージャーが告げると、それなら今日祝わなきゃ! どうしよう、何しようと、これまた目を光らせてフジとチャマがアイディアを出し合っている。こういう時の奴らは、今でもいきなり楽屋が「教室」に変わったかのような表情で意見を重ね合っている。いろいろ変わったしいろいろ進んだし、随分と大きな景色を見せるバンドになったが、本当に何も変わらないことが彼らの中にはたくさんある。

 13時41分。舞台監督がチャマを呼びに来る。既に升がステージのドラム台の上で待ち構えるサウンドチェックへのお呼ばれだ。それと同時にフジが楽屋でアコギを持ち出して喉をコロコロ転がしながら、この日最初の発声練習を始めた。ツアーの最初は楽屋でこの声をなんとなく聞いていただけだったが、今は彼がこの発声練習の中で声が出にくい声域のポイントを見つけ、そのポイントを見つけた先から修正を図っていることがわかる。そのフジに「今日で終わっていたら、このツアーは5ヵ月間の長さだったけど、でも福岡の振替が生まれたから半年間のツアーになったね。そう考えるとなんか楽しくなってくるじゃない」と冗談半分で告げると、「よくはないよ、本当に。みんなの都合を奪ったわけだし、よくはないんだよ。だからちゃんとやらないといけないし、ちゃんとしなきゃね、さらに」と、さらに発声練習を繊細に続けながら話してくれた。

(続きは本誌をチェック!)

text by鹿野 淳

『MUSICA4月号 Vol.132』

Posted on 2018.03.16 by MUSICA編集部

新作『H.O.T』でさらなる新風を吹かせるNulbarich
首謀者・JQはいかなる歩みを辿り、何を想い志し、
今ここに立っているのか。その前史から現在、
そして未来まで、初のバックカバー特集で紐解く

今は僕自身Nulbarichに生かされている実感がありますし、
だから「楽しくやろうよ」っていう想いの根底には、
このNulbarichにすべてを捧げているっていう想いがあります

『MUSICA 4月号 Vol.132』より引用

 

(前略)

■高揚感のある曲が増え、音色は豊潤でアダルト、そして13曲目の“Heart Like a Pool”のように、スタジアム級の鳴りが聴こえ始めた作品でもあると思います。ご自身では今どんな手応えを感じていますか。

「去年Jamiroquaiのサポートアクトをやったぐらいのタイミングに、このアルバムを作ろうっていう思いになったんですけど。上手く自分の中で消化せずに感情を詰め込んでったイメージだったんで。でき上がったアルバムに対して、一旦リスナーとして聴いた時に、『あ、俺達ってこういうところを見てたんだな』とかわかってくることが多くて。で、それこそさっき言っていただいた、曲の画が広くなってるっていうのは僕らも感じたところでした。楽曲が持ってる景色っていうのが、ファーストに比べてより広いものになってる曲が多いのかなって思っています」

■本当にそうですよね。今回はそんなアルバムができるまでの話はもちろん、バックカバー特集ということで、そもそもJQさんがどういう音楽体験をして、どういう意志を持ってこのNulbarichという存在が生まれていったのかというところまで遡ってお話を聞いていければと思います。

「はい。よろしくお願いいたします」

■まず、初めて音楽に触れた瞬間は?

「最初は子供の習いごととしてピアノを始めたことです」

■小学生くらいですか?

「いや、幼稚園生。4歳の時ですね。まぁそれはおもちゃ感覚だったんですけど、ピアノは3年続けて。で、小学校はすぐに吹奏楽部に入って、小学校の後半からはセクションが打楽器に移るんですけど。やっぱ小学校でタイコ叩ける人って、中学校とかではバンドで重宝されるというか(笑)。バンドを組むとかってことは当時はほんとに興味なかったんですけど、でも、できるからやれば?みたいなことで、いろんなバンドのサポートをやることが多くなっていって。そんな感じで音好きが集まってあれこれ演奏する形でバンドに参加してたのが、学生時代ですね」

■そもそもピアノを辞めるタイミングで、音楽を辞めようとは思わなかったんですね。

「姉がやってたっていうのが大きいです。姉の影響でなんとなくやってたっていうか、子供の頃だったんで、周りの流れでやってたところはあったと思います。でも、その小学校の時の吹奏楽部がマーチングバンドだったんですけど、入ったところがたまたま強豪校で。小学校の時はどっぷりそれだけだったっていうか、他の思い出があんまりないくらい土日も含めて毎日練習で。なんか、そこで厳しいことも当たり前に思えたというか」

■それが苦じゃなかったんですね。

「……いや、だぶん苦だったとは思います(笑)。ただ、基本的に部活では勝ち上がれれば県大会、関東大会、全国大会っていう順に行けるんですけど、1年を通して基本的に4曲くらいしかやらないんです」

■課題曲をやっていくんですよね。

「そうそう。だからちょっと途中でブラッシュアップされたりはするんですけど、基本的には同じなんです。で、先生から楽譜を渡された後、最初にその年のバンドメンバーより早く覚えて叩けるようになったり、そこで褒められるのがなんか嬉しかったのは凄いあって。それは凄くガソリンになってたかな――で、ちゃんと音楽をやろうと思ったのはヒップホップとの出会いがすべてですね。それまではクラシックとかいわゆるJ-POPと言われるものだったり、結構スタンダードなロックを演奏することが多かったんで。ドラムだけでラップしてるとか、サンプリングで一小節をひたすらループしてるところでシンガーが歌ってたりとか、そういうヒップホップとかR&Bとの出会いが僕の中では衝撃的で。今までなんとなくやってきたことの全部が覆されたジャンルだったんですよね」

(続きは本誌をチェック!)

text by黒田隆太朗

『MUSICA4月号 Vol.132』