Posted on 2012.08.16 by MUSICA編集部

KESEN ROCK FESTIVAL’12、東北に再びロックが花開いた至福の瞬間を徹底ドキュメント

『MUSICA9月号』P.84に掲載

すべてを失った今だからこそ、
あの山の上から奇跡を生み出したかった――
手作りの自由と手作りのロックが固く握り締めあった
生きてくためのロックの天国KESEN ROCK FES、
歓喜の復活ドキュメント!

 手作りのフェスと書けば聞こえはいいし、さも楽しそうなだけにしか映らないかもしれないが、この便利な時代に何でも手作りでやろうとすると、必ずストレスと摩擦を生み出す。
 KESEN ROCK FESは過去2回、素晴らしい場所に素晴らしいバンドが集まって、素晴らしい1日をロックと共に朝から晩まで過ごしていた。しかし開催まで寝る間を惜しんで会場設営をし、その上で赤字が計上される時もあった。スタッフもだんだん年齢を重ね、結婚したり子供を授かったり、誰もが脇目も振らずにフェスと向かい合うことができずに開催云々を悩んでいた真っ最中に、去年の3月11日が訪れ、けせん地方と呼ばれる大船渡、陸前高田、住田町の多くを津波が奪っていった。よって去年のフェスの開催は、話し合うまでもなく無くなったのであった。
 4月になり、このフェスを昔からサポートしていたthe band apartの原(昌和)と共に、物資を送り届けるだけじゃ仲間の気持ちがどうなっているかわからない。だから逢いに行こうと、54-71というバンドをやっていた川口(賢太郎)が持ってきたソーラーパネルと共に現地へ向かった。行く先々で「昨日、TAKUMAさんがトラックに布団を積んで来てくれたんだ」と、これまたこのフェスに最初っから深く関わり応援し続けている10-FEETが訪れたことを心から嬉しそうに語る彼らと、フェスの今後を含め、いろいろ話をした。
 そもそも自信を失いつつあった彼らが、津波に持っていかれたのは家や親族だけではなく、己の希望や可能性だったのは言うまでもない。彼らは明るく振る舞うし、びっくりするほど屈託なく震災のことをギャグにしたりしたが、これまたびっくりするほど「明日以降」のことだけは語りたがらなかった。音楽の話もそう。流された家の周りで所持品を探していたら、1枚だけ出てきたアジカンのCDが大切で、そればっかり聴いてるからカラオケで全部唄えるとか言い出したり、途方に暮れて津波にやられた場所を歩いていたら、木に去年のKESENのスタッフパスがぶら下がっていたんだと言って、写真を見せてくれたりする。
 彼ら彼女らは、生きることに、そしてここで起きたことを認めるために一生懸命生きていた。スタッフのひとりでもある新聞記者の女史は、帰る家もないし、だから帰らないし、3日間も髪の毛洗ってないと言いながら、輝いた目でいろいろな場所を飛び回っては取材に明け暮れていた。
 そんな彼らが明日のことだけは語りたがらない。
 しかし仲間である彼らが、あり得ないほど自由で手作りなロックフェスを開催できるのは事実だし、そのフェスをまた開いて欲しいし、彼らの心の大切な部分にロックが今もあるのはわかった。だったら「別に12年にKESEN FESを彼らが開催しなくてもいいじゃないか。もしやりたくなったら、その時に一気に事が進むように、東京で勝手に準備を始めよう」と始まったのが、KESEN FESの支援プロジェクト「KESEN ROCK TOKYO(以下KRT)」だった。

(続きは本誌をチェック!)

text by 鹿野 淳

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