Posted on 2012.10.17 by MUSICA編集部

パンクの太陽が、遂に東北へ昇った! AIR JAM 2012

Hi-STANDARDと仲間達が僕らと描いた、2年越しの夢。
復興への願いが、怒れる拳が、
音と鼓動となって明日への道を作り出した。
AIR JAM 2012、永劫消えぬ光の日々、そのすべてを振り返る

『MUSICA 11月号 Vol.67』P62に掲載

鹿野「遂に開催されたね、2年越しの夢が」
矢島「日本が待望していたフェスですよね!」
鹿野「今の矢島の言葉は、去年の横浜でのAIR JAMでKENくんが『日本のためにHi-STANDARDは復活したんだ』とMCしたのを受けてのものだね」
矢島「はい! 12歳の時AIR JAM 2000の映像に衝撃を受け、その後にMUSICAでBRAHMANのTOSHI-LOWさんのインタヴューを読んで芸能プロダクションから転職した僕にとって、人生の再スタートがAIR JAM 2012だったんです!」
鹿野「なんか熱苦しいけど、その割には1日目の終演後にお前、『今なら好きな子に告白できる気がするので、ちょうど来ているその子のところ行ってきます』って言ってたよな」
矢島「……それ、原稿にまでされるんすか………」
鹿野「だって、それのおかげで、帰りのバスに乗れたのは終演の3時間15分後だったんだぞ」
矢島「そうでしたね、初日のバス待ちに関してはTwitterなどでもかなりの不満が出て――」
鹿野「俺が言ってるのは、よりにもよって終演後に告白なんてするから、社長の俺が待たされて、バス待ちの列が膨れ上がるのをただ眺めるしかなかったと言ってるんだよ」
矢島「何せ、AIR JAMですからね! 去年も横浜中華街の景色をバンドTシャツと首巻きタオルに豹変させ、過去にはゴミの散乱当たり前、2000年にはマリンスタジアムの客席とグラウンド間のネットを客が壊した、カオス当たり前のAIR JAMですから。少々のトラブルは覚悟の上ですよね」
鹿野「一概にそう開き直るのもどうかと思うが、ほぼ矢島の言う通りではある。ただ、先に言うと、この2日間の仕切りはシャトルバス以外はノートラブルだったし、スタッフもエリアの入場制限をシビアにやっていたので混乱はほぼなかった。KENくんがMCで『AIR JAMは都市型フェスだから(山では)上手くできないんじゃないかってみんな言ってたけど、どうだ!』って胸を張ってたよね。AIR JAM史上最も円滑に進んだと思う」
矢島「嬉しかったのは、仙台からバスで1時間の山の中に、スケートボードとBMXのデカいパイプがあって、みんながシャーッてやってたことで。10 -FEETのTAKUMAさんが『スケボーの皆さん、用意はいいですか!』と叫んで歌い、ボードの皆さんは一層気合い入れて滑るという」
鹿野「AIR JAM仕様を100%、東北の山の中に持ってきたのは、このフェスの目的をそのまま表わしていたと思う。Hi-STANDARDは90年代後半のストリートカルチャーとパンクの融合の象徴だったけど、彼らがそうなったのは『MAKING THE ROAD』という名作やPIZZA OF DEATHというレーベルをD.I.Yつまり完全ハンドメイドで作ったからで、そして『自分達だけがストリートとパンクとインディーズを繋げたわけじゃなく、そこには仲間がいるんだ』と現場で伝えたのがAIR JAMだったわけだよね」

(続きは本誌をチェック!)

text by 鹿野 淳×矢島大地

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